後漢書・王覇伝(劉秀)


「疾風勁草(チー・フォン・チン・ツアオ)」
   西漢末年、劉秀は兵を起こし王莽に反旗、部隊は既に頴陽に迫っていた。

 頴川県(現在の河南省許昌県付近)に、王覇がいた。彼のあざなは元伯。
王覇は仲間を引き連れ劉秀に馳せ、入隊志願した。 劉秀は、歓迎し入隊さ
せた。

 以来、王覇は劉秀に忠誠を誓い、数々の戦いに臨んだ。その甲斐あり、昆
陽(現在の河南葉県)の戦役では、王莽を撃破する勲功を立て、劉秀から大
きな信頼を得たのだった。王覇の父もかつては劉秀の兵士であった。「私は
老いた・・、しっかり劉秀に仕えよ!」と言い残した。

 王覇は、父の分まで積極的に活躍し、まもなく”大司馬”の位につき、
”功曹吏”(郡の属官吏)に抜擢された。

 だが、好い事ばかりは続かない。劉秀軍が黄河を渡り、河北一帯の農民蜂
起鎮圧に向かった時、情勢は一転し、悪化した。当初、王覇と共に入隊した
数十人の同士は次々と去って行った。だがこの苦難にあっても王覇だけは劉
秀の為に尽くしました。 劉秀はこの時、改めて王覇に更なる信頼を持つよ
うになったのです。 

「頴川の時、人々は私を頼ってきたが・・・既に彼らは誰一人いない、お前
は残り、私の為に尽力してくれる、まさにこれ疾風知勁草だ。」

その後劉秀は、皇帝(東漢・光武帝)に就くと、王覇を偏将軍に機用し、
直ちに彼を”上谷太守”(上谷郡、源氏あの河北中西部地区)に任じました。
王覇はこの上谷の地で二十数年、始終光武帝の忠実なる片腕の将軍でした。

 上記の故事は<後漢書・王覇伝>に記載されています。
 劉秀の”疾風知勁草”はその後、四字成語として定着するようになりました。

 <宋書・顧覬之伝>での記載:
 ”疾風知勁草”の意味を述べている:猛烈な疾風を耐えてこそ、
    くじけて折れることのない「本物」を知ることができる。
 人々は災難に遭遇してもけっして揺るぐことなく、最難関を潜り抜けること
ができる比喩に用います。

 ”疾風知勁草”は簡略されて”疾風勁草”としても使われます。