「エピジェネティックス(新しい生命象をえがく)」2014年
序章 ヘップバーンと球根
 胎児期の環境が後の健康状態に影響を与える。そのメカニズムがエピジェネティクスである。
 エピジェネティクスは細胞の分化や癌の発症などにも関係している。
第1章 巨人の肩から遠眼鏡で
 発生・分化の過程でゲノムの塩基配列は変化しないので、分化にはエピジェネティクスが関係
 することが明らかになった。
エピジェネティクスの定義
 @DNAの塩基配列の変化を伴なわずに、染色体での変化により生じる、安定的に受け継がれ
  得る表現型 もしくは
 A染色体における塩基配列をともなわない変化、またはヒストンの修飾とDNAメチル化による
  遺伝子発現制御
エピジェネティクスはパラダイム転換をもたらしたとは言えない
 エピジェネティクスは、セントラルドグマ(ゲノムで全ての遺伝情報が説明できる)は退けたが、
 パラダイム転換をもたらす程のインパクトはない。ただ、生命現象の謎を解く重要な鍵ではある。
第2章 エピジェネティクスの分子基盤
ゲノム刷り込み
 体細胞は、個体が生きている限りしか機能しないが、生殖細胞は、その遺伝情報が子孫に
 伝達される。 その情報は、細胞核内のDNAの4つの塩基(ACGT)の並び方で表現される。
 ただし、遺伝子の一部が、DNAのメチル化で抑制されており、これをゲノム刷り込みと呼ぶ。
 このため、受精直後の初期胚を移植により雄のみ、雌のみの核にすると正常に発生できない。
遺伝子発現の制御
 遺伝子とは、「mRNAへ転写、さらにタンパク質へ翻訳される」DNAの領域である。
 コントロール領域(遺伝子近傍)には次の2つが存在する。
  プロモーター領域(遺伝子のすぐ上流) :RNAポリメラーゼが招き寄せられて転写を行う。
  制御領域:転写因子が多くあり、上記には、この活性化が必要である。
   これには、制御領域側の「エピジェネティックス修飾の状態」(ヒストンの修飾とDNAの
   メチル化)が大きな影響を与える。
 ヒストン:DNAを巻き付ける糸車のようなタンパク質。この代表的修飾がアセチル化(活性化)、
   もう1つがメチル化
 DNAのメチル化:シトシン(C)のみが受ける。この場合転写が抑制される。
 最低限の基礎知識
  @ヒストンがアセチル化をうけると遺伝子発現が活性化される。(ヒストンのメチル化は複雑)
  ADNAがメチル化されると遺伝子発現が抑制される。(メチル化はシトシンのみ)
ヒストンの修飾
 ヒストンの構造
  4種類のタンパク(H2A、H2B、H3、H4)がそれぞれ2個ずつ集まって計4種類8個の
  タンパク質がコアヒストンを形成する。ヒストンテールと呼ばれる部分が修飾を受ける。
  DNAの2本鎖が、コアヒストンに巻き付いており、この複合体をヌクレオソームという。
  ※タンパクH1が、ヌクレオソーム間のDNAに結合するリンカーヒストンを形成する。
  ヌクレオソームが連なった構造をクロマチンと呼ぶ。
 修飾の効果
  どのヒストンが、どのような(アセチル化、メチル化など)修飾を受けるかで効果が異なる。
  ヒストンのアセチル化:転写を活性化する。
  ヒストンのメチル化:仕組みや効果が複雑
 ES細胞やIPS細胞でのヒストン修飾
  活性型、抑制型の両方の修飾が存在する。(もうすぐ読む必要がありとの意味)
DNAのメチル化
 CpGアイランド
  シトシンにメチル基を付加することをDNAのメチル化という。
  C(シトシン)p(リン酸基)G(クアニン)という配列の場合のシトシンに可能性があり、転写が
  抑制される。この配列を多く含む領域をCpGアイランドと呼ぶ。
  メチル化は、される際は二重らせんの両側に起きる。
 DNAメチル化酵素(書き手)
  DNMT1:維持メチル化を行う。細胞分裂の際に活躍。
  DMNT3(総称):新規メチル化を行う。サブタイプがあり協調して機能する。
  ※ちなみに、DMNT2もあり、これはRNAの書き手
 転写抑制の2つのタイプ
  @転写の因子が結合を阻止
  A「読み手」(MBD)が抑制するタンパクを呼び寄せる
 DNAメチル化阻害薬(アザシジン)
  エピジェネティックスを変化させ細胞分化に影響を与えることができる。
 発生・分化とDNAメチル化
  体細胞:受精後すぐにDNAメチル化が消去される。
   ただし、「インプリンティング遺伝子」、「一部のレトロトランスポゾン遺伝子」は例外。
  生殖細胞:始原生殖細胞では、脱DNAメチル化が例外なしに行われる。
   さらに、精子、卵子で新たなDNAメチル化が起きる。
第3章 さまざまな生命現象とエピジェネティクス
植物
 転移(トランスポジション)する遺伝子
  ・DNA型のトランスポゾン:カット&ペースト
  ・レトロトランスポゾン:コピー&ペースト
  突然変異を避けるため、通常はDNAメチル化により発現が抑制されるが、植物には転移活性
  の高いトランスポゾンもある。例:アサガオの品種改良
 春化:低温処理が花成に影響を与える。(例:小麦、シロナズナ)
  この春化にもエピジェネティックな現象が関わっている。
 突然変異:植物では致死的な変異が少ないので研究に利用された。
ミツバチ
 雌は餌の違いによって女王蜂か働き蜂に分かれる。
 ミツバチにもDNAメチル化が見られる。(ショウジョウバエにはなかった。)
 幼虫のDNAメチル化を抑制すると7割以上が女王蜂になった。
 女王蜂と働き蜂では550個の遺伝子のDNAメチル化に違があるが、脳の発生や行動への影響
 は不明である。
プレーリーハタネズミとハタネズミ
 パートナー嗜好:あるホルモンの受容体にエピジェネティクスが影響を与える。
 記憶:DNAメチル化もヒストンのアセチル化も、学習・記憶に必須である。
 ストレス耐性:幼少期可愛がられると、海馬でDNAメチル化が進み、セロトニンが分泌されること
   で、ストレス耐性が高くなる。(ヒストン修飾も関与している。)
「獲得形質」の遺伝
 動植物の違い
   生殖細胞の発生  DNAメチル化
動物 早い段階 発生過程でゲノム全体のDNA脱メチル化(哺乳類)
植物 花ができる時 広範なDNA脱メチル化はない
  従って、動物では獲得形質が子孫に伝わり難い。
   @生殖細胞ができる時期が動物では早い
   A生殖細胞の発生過程でゲノム全体のDNA脱メチル化が動物では起きる。
  植物ではエピジェネティクスを利用した獲得形質の遺伝はよくある。
 動物での形質遺伝の例(レトロトランスポゾンが関係する特殊な例)
  マウスの毛の色:アグーチ遺伝子のDNAメチル化が関係
  マウスの尻尾:アキシン遺伝子が関係
  マウスの餌と毛の色:環境要因(食餌)もDNAメチル化に影響した
 まとめ
  動物でも環境要因がDNAのメチル化に影響を与える例はあるが、獲得形質の遺伝とは
  言えない。
第4章 病気とエピジェネティクス

 癌の発生は5〜6種類の異常が細胞増殖などに関係する遺伝子に蓄積することで起きる。
 その遺伝子異常のうち成長因子の自給自足、増殖抑制に対する不応性に絞って説明する。
 アクセルとブレーキ
  遺伝子は次の2種類に分けることが出来る。
   癌遺伝子:癌発生のアクセル。対になる遺伝子の片方がオンになれば増殖につながる。
   癌抑制遺伝子:癌発生のブレーキ。両方がオンになると増殖につながる。

  異常は次の2種類に分けることが出来る。
   質的な異常:遺伝子そのものに突然変異。エピジェネティクスと直接の関係はない。
   量的な異常:タンパク質は正常だが、過剰に発現したり異常な場所に発現。
        エピジェネティクスが関与する場合もある。
 DNAメチル化異常
  特定領域がDNA高メチル化
   癌抑制遺伝子の制御領域にあるCpGが高メチル化されると(遺伝子に変異がなくとも)
   ブレーキが壊れた状況になる。薬剤によって正常かできる場合がある。
  ゲノム全体がDNA低メチル化
   癌の場合、一般的にみられるが、特に、大腸癌や乳癌で顕著。
   理由は不明だが、癌遺伝子の活性化、レトロトランスポゾンの活性化からの突然変異
   と推測されている。
 その他
  ヒストン修飾酵素の突然変異:癌の発生に関係しているらしい。例:肝臓がん、白血病
  DNAメチル化酵素の異常:癌の発生に関係しているらしい。例:急性骨髄性白血病
 癌への対処
  癌のスクリーニング:DNAのメチル化が利用されており、新たな方法も期待されている。
  白血病治療薬:研究用試薬が治療に使われるようになった。
   例:アサシチジン:DNAメチル化阻害剤
     HDAC阻害剤:ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤
   副作用、治療の作用機序不明といった問題もある。
  エピゲノム創薬:エピジェネティクス状態を変化させることで癌を治療する。
   例:MLL遺伝子が発症に関連する白血病
   創薬は難しい。
   例えば、ヒストン修飾酵素EZH2は癌遺伝子としても癌抑制遺伝子としても機能する。
生活習慣病
 バーカー仮説
  母胎内で低栄養にさらされ低体重で生まれると、将来、生活習慣病になりやすい。
  この胎児期のメタボリック・メモリー(代謝における記憶)の本態はエピジェネティックスの
  状態の変化である可能性が高い。(ラットの実験では再現されている。)
 高脂肪食と低タンパク質食
  高脂肪食:少年時代の飽食が2世代伝達され寿命を短くした。メタボのラットの父親の
   糖尿病が伝わった。
  低タンパク質食:低タンパク質食の父親マウスの子供の肝臓で、脂質やコレステロール
   を合成するための遺伝子発現が上昇した。
  高脂肪食と低タンパク質食の実験はエピジェネティクスな影響を遺伝する可能性を示唆する。
 エピジェネティクスが関与するかもしれない疾患
  自閉症、統合失調症、自己免疫疾患(※癌との関係は研究途上)
  ICF症候群(多彩な症状を示す先天性疾患):新規DNAメチル化酵素であるDNMT3bの
   異常が原因。
  歌舞伎症候群(歌舞伎役者の化粧のような切れ長の目が特徴):ヒストンを修飾する
   メチル化の書き手タンパクの異常により発症
ゲノム刷り込みが関与する疾患
 プラダー・ウィリー症候群(PW)とアンジェルマン症候群(AG)
  いずれも15番染色体の特定部位の欠損から起きるが、
  ・PW遺伝子は母性インプリンティング遺伝子→PWはDNAメチル化で押さえられている。
   →父親から欠損した遺伝子を受け継いだ時のみ、PWを発症する。
  ・AG遺伝子は父性インプリンティング遺伝子→AGはDNAメチル化で押さえられている。
   →母親から欠損した遺伝子を受け継いだ時のみ、AGを発症する。
 片親性ダイソミー(染色体が2本とも片親由来になる異常):
  父親由来ならAG、母親由来ならPWを発症する。
 ベックウィズ・ウィードマン症候群
  11番染色体のインプリンティングが関与する。片親性ダイソミーによっても発現する。
 エピジェネティックスの変異
  これまでに述べたような症状は、片親性ダイソミーや遺伝子の突然変異がなくとも、
  エピジェネティックスの変異で発症し得る。
第5章 エピジェネティクスを考える
非コードRNA
  タンパク質をコードしない非コードRNAをエピジェネティックに含める人もいる。
  このうち、「tRNAやrRNA」以外の「miRNA、siRNA、piRNA等」が脚光を浴びている。
 メスのX染色体
  哺乳類の性染色体は、オスはXY、メスはXXである。
  メスのX染色体は一方だけが転写を抑制されている。
  抑制されるX染色体が父親由来か母親由来かは細胞毎にランダムに決まる。
  X染色体の不活性化に関連する非コードRNAが三毛猫を作るので、通常はメスである。
 遺伝子不活性化の引き金
  X染色体の不活性化:X染色体のXicと呼ばれる領域がから産出される非コードRNAである
   Xistの働きによる。
  シロイヌナズナの春化現象:非コードRNAであるCOLDAIRが抑制型のヒストン修飾の
   誘導に関与している。
 まとめ
  他にも哺乳類のインプリンティング、piRNAなど多くがエピジェネティックス制御に関与して
  いるが、「染色体における変化」ではなく、ヒストン修飾やDNAメチル化を介しているので
  筆者としては「非コードRNAはエピジェネティクスには含めずに」考えている。
エピゲノム解析
  ゲノム全体におけるエピジェネティックスの状態を解析すること。
  その基礎となる塩基配列決定技術は急速に進歩し、特に、次世代シーケンサーという機器
  が桁違いの発展をもたらした。
 DNAメチル化解析(メチローム解析):シトシンがメチル化されているか否かを判定する。
  これで、「CpG配列のうち体細胞では60〜80%がメチル化されている」、「細胞によって
  メチル化パターンに違いがある領域は20%で、遺伝子発現の制御領域に集中している」
  ことが分かった。
 ヒストン修飾解析:ここでも次世代シーケンサーが役立つ。
 解析の難しさ
  原理的な難しさ:ゲノムはどの細胞でも同じだがエピゲノムは細胞によって異なる。
   →解析に手間が掛かりすぎる
  技術的な難しさ:次世代シークエンサーは画期的であったが、それでも不十分。
   精度を上げるには、メチローム解析でもコストがかかる。
   ヒストン修飾の解析では、研究室によって手法が違う。
 解析の将来
  地道な努力しかない。技術革新が行われるかもしれない。
生命現象を支える柱
 エピジェネティックスの物質的基盤:分子レベルのメカニズム解明は進んでいるが、
  分からないメカニズムは多い。
 エピジェネティックスの影響範囲:厳しく見ると特殊な事例にしか適用できない。
  エピジェネティックスはほとんどの生命現象に関係しているが、重要度合は不明なことが多い。
 エピジェネティックスと疾患
  エピジェネティックスは多くの病気と関係しているが、重要な要素であるかどうか不明である。
  例えば、癌の原因としては、補助的と考えられる。(メインは遺伝子の変異)
  また、エピジェネティックス修飾は癌の発症にも抑制にも働く。
終章 新しい生命像をえがく
エピジェネティクスは生命観を変えるか
 ゲノムは決定論的な生命観をもたらすが、エピジェネティクスはこれをを過去のものとしたと
 考えられる。しかし、ゲノムあってのエピジェネティクスであるとも考えられる。
エピジェネティックスな状態の遺伝
 少なくとも、動物では用不用的な獲得形質の遺伝はありえない。
エピジェネティクスの制御
 ゲノムは不変だがエピジェネティックスは可変である。
 従って、薬などで制御できる可能性がある。

遺伝か環境か(疾病との関係で)
  エピジェネティックスが関係する疾患はあるが、可能性の示唆にとどまる。
 自閉症
  双生児でも、エピジェネティックス修飾は加齢により違いが生じる。
  →遺伝的要素が強い自閉症もエピジェネティックスは関係する。
 胎児期の環境因子と成人後の疾患発症:関係があることは確実
 PTSD:エピジェネティクスが関与しているとの仮説がある。
生命科学の特徴
 各論的な知識が蓄積だけでなく、原理的なことや総論的なことを押さえることが大切である。
  例:確実な現象(インプリンティングなど)、物質的側面(修飾)、分子メカニズム
エピジェネティクス研究の将来
 現状では分かっていないことが多く、どの程度進んでいるかは予測できない。